萬福寺住職 森 剛史

 毎日、ニュースで悲惨な事件が報じられています。最近は特に不可解な事件が多いように思われますが、人間関係における様々な問題が、悲劇の背景にあると言えましょう。私たちは人間関係を構築し、それを維持するために、法律に代表される「決まり」の中で生活しています。この「決まり」は、倫理道徳に基づく善悪の判断によって成り立っています。では、人間社会における善悪の基準は、必ずしも完全なもの、絶対的なものと言えるのでしょうか。

 例えば戦争や革命は、結果如何で対立する勢力の立場が逆転したりします。勝者が善で敗者が悪となるのです。冤罪の問題なども善悪の立場が流動するものです。刑事事件の容疑者が、仮に真犯人ではなく善良な市民であったとしても、裁判で有罪とされた場合、その人は悪とされてしまいます。普通に日常を送っている人が、人間関係におけるちょっとした誤解から、良好だった関係が破綻し、悪いことをしていないにもかかわらず、いつの間にか悪の立場にされてしまうことなどは珍しくありません。

 時代の変遷によって善悪の考え方に変化が生じること、つまり、従来、善とされてきたものが悪となる、またその逆も含む善悪の転換は、人類の歴史において繰り返されてきました。こうしてみると、人間の善悪観や道徳観は、完全なものとは言えないでしょう。 私達人間は誰しもが煩悩を持った存在、煩悩具足の凡夫です。では、その凡夫とはどのようなものなのでしょうか。親鸞聖人は凡夫について次のように述べています。「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)。このような凡夫であるがために、私達は、何が真実で何が真実ではないのか、本当の意味での見極めができず、善悪の判断もまた困難なのです。

 聖人は、ご自身の深い凡夫としての自覚から、冒頭の「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」と述べられました。本当の善悪は阿弥陀如来のみが知るところであり、私達煩悩具足の凡夫は、何が本当で何が本当ではないのか、何が善で何が悪なのか、それがわからない。しかし、何もわからない中で唯一、真実、まことなるものがあります。それが念仏です。聖人は『歎異抄』後序で、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあるなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と語り、私達に「ただ念仏」だけがまことなのだと教えてくださっています。私達は煩悩具足の凡夫ゆえに、あらゆる事が「そらごとたわごと」であり、「まことがない」火宅無常の世界で苦しみながら生きているけれども、念仏だけはまことであると。念仏、すなわち南無阿弥陀仏は、如来の本願、如来からの働きかけであり、一切の濁りもなく、純粋に清らかな、如来の真実そのものです。だからこそ、「念仏のみぞまこと」なのです。

 なお、聖人は『歎異抄』の第一章でこう述べています。「しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに」と。念仏に勝る善はない、如来の本願を妨げるほどの悪はない。現代という時代だからこそ、聖人のこの言葉を改めて大切にしたいと思います。

2019年3月発行「共に歩まん」より