浄龍寺前住職 藤井 玄秀

 私たちは、日常生活の中で、仏様、あるいはご先祖(注)、と意識して生活していません。ところが夏になるとお盆が来ます。秋には彼岸と言うように仏教と自然の摂理とイコールで結んで、生かされている私に「如何に生きるべきか」また「生きる喜びは何処に」と毎年繰り返しくるお盆であり、春秋の彼岸であると思います。

 ところがお盆は、休暇であり、レジャー満喫する事ばかりに心が走り、ご先祖に対して報恩の誠が、形式になってしまいがちと思います。何故ならば、私が子供の頃にはお盆が来る前から、野山での遊びにも蝶々、トンボを捕ったり、魚を捕ることなどを家庭の親も、苦悩する人にならない事を願い、遊びたい流行る子供の心を戒められてきた家庭教育がありました。このことは、「仏教の教えに殺生してはならない」と言うのがあって、生き物を殺してはいけないと言う厳しいことを一般家庭の子供にも、意味分からない子供に、ただ我慢するようにと、「いのち」の尊さを教えられてきたものです。そしてお盆がくると、お墓参りに始まり、ご先祖が今の私の存在のあることを、報恩と感謝の心を合掌してお念仏申す型で教わってきたものです。

 時代の移り変わりは激しいものですが、いくら時代が変わっても「命の尊さ」は、生活様式が変わっても、大切にされなければならないはずです。お盆の行事が、大人が子供たちを集めて魚捕りの遊びになっているなんて、現代は何と皮肉なことになっているのでしょう。そして社会は、命の大切さをアピールしています。無神経と言っても言い過ぎでないと思います。小さな命を奪うことも、大きな命を奪うことも、楽しさ満足感に浸ってしまい殺生という言葉も忘れてしまう、教えでは、「苦悩する人間にかかわる」と教えています。レジャーの楽しみも大切です、ストレスの解消も大切です。お念仏申して本来的意義を大切にすることも大切と思います。

(注)真宗では諸仏と言います。

2007年9月発行「共に歩まん」より