正敬寺住職 草野 文明

 以前、知人に言われた言葉を誤解し、大変悩んだことがあります。このようなことは、誰でもが日常生活の中でよく経験することではないでしょうか。その時の私は、藤元正樹先生から「生死は亀毛の如し。仏法を聞いて何に目覚めるかといえば、迷いに目覚めるのです」と教えられたことで、恥ずかしい気持ちになりました。

 「生死は亀毛の如し」とは、中国の曇鸞大師の言葉です。仏教で「生死」は迷いを表す言葉なので、「迷いは亀の毛のようなものである」ということです。亀には毛が生えませんが、長く生きた亀は海藻がついて緑の毛が生えているように見えるそうです。毛のようであって本当は毛ではない。その毛でないものを毛と誤解することを「迷い」と曇鸞大師はいわれるのです。

 他人の考えにはなかなか頷きませんが、自分の考えを疑わない「私」にとっては、迷いに気づくことは大変困難なことです。それは法に遇うことで気づくことができるのでしょう。恥ずかしいと感じる心は、聞法することによって引き出せてもらうのでしょう。

2012年3月発行「共に歩まん」より