專念寺前住職 藤井 護

 長野県を北に南に、東に西に、そして飛騨路へと向う。以前は早く早くと急いでばかりの旅であったが、この頃は年齢と共にゆっくり移動するようになった。すると、今まで景色など見えなかったが、山や河が峠を越える度に、ほほえんでいたり悲しんでいたり、違った姿をしていることがわかってきた。旅をするということは単に目的地へ行くだけでなく、その道程を味わうことであると思うのです。人生も「山河越える旅路」という。いろんな景色があって味わえば楽しいものになるのだろう。

 山河越えるといえば、聖人を訪ねて関東から京都へ「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずしてたずねきたらしめたまう御こころざし・・・」『歎異抄第二章』常陸・下総・武蔵・相模・伊豆・遠江(とおとうみ)・三河・尾張・伊勢・近江・山城と命がけで、当時は途轍もない旅であったことでしょう。

 話は進む

「この熊笹におおわれた道を幾千幾万とも知れない糸ひきの大群が、まるで渡り鳥のように来る年も、来る年も峠を越えて」『あぁ野麦峠』(山本茂実 著)

 その野麦峠の頂上にある、お助け小屋のそばに碑が建っている。「何況(がきょう)(おく)(ねん) (にゃく)(ねん)仏者(ぶつしゃ) 当知(とうち)此人(しにん) ()(にん)(じゅう)(ふん)()()()」『仏説観無量寿経』山河越えて旅をしてきた人々の心を念ずるならば、山河がほほえみ、悲しんでいる姿を思うことです。

 話は跳ぶが、当寺は中山道の鳥居峠を控えた奈良井宿にある。江戸時代多くの旅人が往来し栄えた宿場町であり、『恩讐の彼方に』(菊池寛 著)の主人殺しの市九郎がさらに犯罪を重ねた処です。その後、改心して僧となり九州の青の洞門に臨むのであるが、山や河は微笑し、慟哭していたに違いない。

 「微笑」といえば、釈尊の「即便(そくべん)微笑(みしょう)」を思います。韋提(いだい)()が「我、今、極楽世界の阿弥陀仏の所に生まれんと願う。唯願わくは、世尊、我に思惟を教えたまえ、我に正受を教えたまえ」と、それを聞いて釈尊は微笑まれた。それは、人類の中に初めて極楽を願い、道を尋ねる人間が現れたことを喜ばれたのです。

 果たして今の「私」を微笑まれているでしょうか、慟哭しておられるでしょうか。

2014年3月発行「共に歩まん」より