正行寺住職 佐々木 一男
葬儀・法事の法話の時、私たちの身の道理を受け止め引き受けていく事から、人生(人と生まれて、人として生きる)を考える視点が大切ではないですかと問いかけをする。私たちの身の道理とは、生・老・病・死(四苦)である。これは、改めて言うこともないが、自分の両親を縁としてこの娑婆に誕生したと同時に平等に備わった原初事実である。しかし、我々人間は鈍感であり怠慢である。その事実になかなか真向かうことをしない。世間の関心事は、若く健康を保つことをアピールする商品を売り込んでくる。しかし、周囲にはどれだけ若く見えたとしても、実年齢を知っている自分と仏の眼は誤魔化すことはできない。我が身の事実は、常に現実に引き戻してくる。
この法語から教えられるのは、娑婆に縁を頂いた時に、生・老・病・死と一緒に阿弥陀如来を身の内に頂いて誕生しているということである。「念仏は人間が称えるものではなく、阿弥陀如来自身が称えられるものです。」というこの言葉に、阿弥陀如来は自分の外に在ると思っている我々に、私自身の身の内に阿弥陀如来を頂いているという原初事実を再確認させられます。その内なる阿弥陀如来に常に念じられている身の事実を通して、日常の忙しさに追われ一番大事なことを忘れて生活している事を教えられ、それでも私を見捨てずいつも念じ、本願に目覚めさせようとはたらきかけて下さっていることに気付かされると頭が下がります。
また、「私たちには念仏をする能力などひとつもありません。」という言葉は、この言葉だけだと身も蓋もないように感じますが、南無阿弥陀仏という六文字の念仏を自分が称えていると思い違いをしている私に対して、我が力にて申すにあらずという、我が能力を頼みとして生活をしている自身の在り方を根底から揺さぶります。
何ひとつ思い通りにならない人生を生きている私を、まるごと抱えて共に歩んで下さっている阿弥陀なるいのちが、私を通して表現されていることを、南無阿弥陀仏という声を聞くことを通して知らされてくるのです。内なる阿弥陀に念じられ呼びかけられていることを感覚できる、いのちの歩みを共にしたいものである。
2017年3月発行「共に歩まん」より