長稱寺住職 木曽 義淨

 言行緑である『蓮如上人御一代記聞書』第103条(真宗聖典874頁)で、室町時代より現代の我々すべての者にも、日々の営みに追われ、追いかけられ、ただ流されているだけの生活を、このまま死に至るまで続けていってよいのかと、明日をも知らぬ我身であるからこそ、ただ流されているだけの生活から日々の営みそのものが、仏法となる仏法聴聞の生活への転換を絶えず呼びかけて下さっている。

 日々の営みに、追われ、追いかけられ、ただ流されているだけの生活とは、我々自身の理屈の上に立った生活であり、人知、分別にて営まれるから行き詰まり迷う、これは自力のはからいに立っているからである。

 日々の営みそのものが仏法となる仏法聴聞の生活とは、道理(因縁果)の上に立った生活であり、仏智、無分別にて営まれるから道が開かれ、迷わない。これは、他力のはからいに立っているからである。

 上人が「仏法の事は、いそげ、いそげ」と絶えず呼びかけて下さっているのは、自分の都合を中心にして、真実や我身の姿を認めずうなづかず、此のままでは一生かけても自分を生きる生き方も出来ず、自分になれない我々すべての者に、何時、何処で死に至るかも知れず、虚しく人生を終えてしまうでしょう。明日をも知らぬ我身である事は、他人事ではなく今の貴方自身の事ですよと。早く人知、分別によって行き詰まり、迷う自力の計らいを翻して、仏智、無分別によって道が開かれ、迷わない絶対他力の大道に帰りましょう。仏法聴聞の生活を頂くお念仏を我声で申して、我耳で聞き、如来様の御こころを頂いて一緒に生きましょう。

 「仏法から何をお聞きするのですか」という問いに、私を、私の事をお聞きし、一生懸命、一生懸命、如来様の本願のもとで、今生きて働いている教ですからと。以前洋酒のコマーシャルにあったように、「何も足さない、何も引かない」というようにと。

 「生活の中で念仏するのではなく念仏の上に生活がいとなまれる」(和田稠)  

2016年9月発行「共に歩まん」より