宝栄寺住職 三浦 義徳

 亡くなられた方のことを偲ぶとき、人は様々な思いを持ちます。愛別離苦という言葉が、そのことを端的に語っています。もう一度会いたいという思いならば、亡くなった人たちとどこかでつながっていると感ずることができ、どれほど心安まることでしょう。また、あのとき何故あんなことを言っってしまったのか、何故こうしてあげなかったのかとか、悔いの残る場合もあります。そこには亡くなった人たちが、何か思いを残して亡くなったにちがいないと、私たちが感ずるからだと思います。そして、その思いを後に残った者がなんとか満たしてあげたいと思い、いろいろな方法が考え出されてきたのではないでしょうか。

 こうしたことから人は心の奥に共に生きた人たちと死を超えて一つに出会いたいと思っている、ということです。何故なら、もし一つに出会うことができなかったら、私がこの世に生きたことが確かなものにならないからです。人間にとって一番つらいことは、事実、共に生きたにもかかわらず、ついに一つに出会うことができなかったということです。そうした苦しみを持つわたくしたちに親鸞聖人は「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」と、道理に目覚めてあらゆる縁のあるものと共に生きよと、生きることを確かなものとなるよう導いてくださっています。お念仏は亡き人を救うための手段ではなく、私共の生きることそのものです。

2017年9月発行「共に歩まん」より