専念寺前住職 藤井 護
一昨年、私の住んでいる村が塩尻市の合併になり、市の環境審議会委員となった。環境とはいろいろあるが、ここでは自然環境、生活環境のあり方を云々するものである。
これまで環境とは自分をとりまくもので自分の外という感じがしていた。よく考えてみると自分が生きていることそのままが環境を造り出しているのであって私がそのまま環境なのである。「いのちを大切に!」とよく言われるが、私と別にいのちがあって大切にするのでなく、私そのものを大切にすることである。私がいのちそのものなのだ。そして、本尊も私の外にある礼拝対象物ではなく、私そのものである。門徒の皆さんも、私そのものである。
そのことに気づいた時、何か目が覚めたような気がした。私は現在、教誨師をさせていただいているが、被収容者と教誨師、犯罪者と私、実は私そのものであったのだ。私自身の中にその要因がある。寺に若者が来ない。お詣りが少ないという。己れ自身が求めないものを誰に求めようというのか、仏法に、寺に逃げ込んでいる自分が見えてくる。他者との係り、社会との接点、社会性のある生き方を求めて歩まさせていただきたいと思います。
2007年3月発行「共に歩まん」より