芳仙寺住職 寺田 昌一
日ごろ何気なく口から出る言葉の一つ「もったいない(勿体無い)」とは、仏教用語の「物体(もったい)」を否定する語で、『日本国語大辞典』の項目を紐解くと「使えるものが捨てられたり、働けるものがその能力を発揮しないでいたりして惜しい感じがする」とある。最近亀井鑛さんの『そんない生き方じゃだめなのが分かる本』(興山舎)を拝読して感銘を受けた。「もったいない」が生じる負の一面をズバリ吝嗇(けち)と倹約の違いとしてクローズアップされながら「もったいないってどんな心?」と題してこうあった。「ものを大事にする節約、倹約と吝嗇 の違いはどこが違うんでしょうか。最近「もったいない」という日本語を、アフリカ、ケニアの女性環境副大臣マータイさんが感激して広く提唱し、有名になりました。「もったいない」にも二通りあります。なぜもったいないのか。一つ、お金がかかったものだからもったいない。多くの人の手を煩わせたものだからもったいない、と。じゃ、金のかからない、人手のかからないものなら、例えば空気とか、雨水とか、そこらの石や砂利なんかなら、いくら無駄遣いしてももったいなくないのか。二つ、仏教では、ものそのものの命を尊重するところから、どんなにお金かかっていなくても、多くの人の手を煩わさないものでも、かけがえないたまもの、頂戴物と大切にします。」それを五百年昔、浄土真宗中興の蓮如上人は「仏物(ぶつもの)」「仏法嶺のもの」といって、廊下に落ちていた紙切れ一枚をさえ、両手でおしいただかれたと伝わります。(『御一代記聞書』三百十条)
常日頃から「もったいない」の意識をもっているだけでけちになることもないとすれば、まさしくこの言葉こそが「もったいない」ものである。
2009年9月発行「共に歩まん」より